1950年生まれ 北九州市出身
1965年 東洋陶器(株)現 株)TOTO入社
小倉第1工場機械課工具係に配属、機械加工と出会う
1990年 研究業務に転籍、銅合金の鏡面切削加工を実現
以降
光通信事業のコスト改善や新素材の加工技術開発業務に携わる
この間、技術考案賞はじめ数度のTOTO社長賞受賞
2000年 福岡県優秀技能者表彰(福岡県版 『現代の名工』)
2001年 第1回 北九州マイスター認定表彰
2002年 福岡県優秀技能者県知事表彰
産業教育賞 受賞
『膜妄想』
平成13年(2001年)9月23日 日曜日
北九州市八幡西区 東田北九州博覧祭会場内《1901メモリアルパビリオン》(現 東田高炉史跡公園)の特設会場にて、北九州マイスターの認定式が行なわれた。この制度は、1901年に北九州八幡の東田の地において近代工業が発祥し、100年後の2001年に今後の100年の計を見据えて、北九州市が創設したものである。自薦・他薦38名のうち、計6名が、第1回北九州マイスターと認定された。
認定されたマイスターを代表して、元新日鉄 高炉技師の馬場政光氏が『技術・技能は普遍ではない。ものづくりに対する姿勢や心を伝えることが大事だと思う。』と述べられた。
まず教育関係への講演活動が始まった・・・・今思うと火の出るような恥ずかしさ、いままで、黙々とモノ言わずモノ造る人が、認定後は、モノ喋る人になってしまっている。
最初は、中学生向けの職業講話の依頼であった。依頼先よりレジュメを準備してください、しかしながらそのレジュメの意味さえ知らない・・・・・のが実情のところでした。
起承転結、話をどのように組み立てようか・・・悩みになやみ、うまく話そうとせず学生にわかりやすく、有りのままの経験やその都度感じたことを時系列に考えておみた。
すなわち、モノつくりでも、どのような職業でも最初の基礎基本が重要である。ベースとなる土台がしっかりしていないと、次の段階の応用展開で混乱してします、将来砂上の楼閣状態になる、この基礎基本が叱りしてこその応用展開がある・・ことを説いた。
授業の心得 『膜妄想』迷うことなかれ
授業が始まれば、自分が一番上手と思え
授業に準備をするときは、自分が一番下手だと思え 準備万端 怠りなし
2007年 ある日、友人である大学の教授から
「生野さん、石垣島に行きませんか?」私はてっきり友人が同行と早合点し、内容も確認せず二つ返事でこの話を了承した、早速依頼先に日程、調整私は何が何だかわからないまま・・・・・実は沖縄県立八重山商工高校に新規の機械設備が導入される。導入に際し、加工技術の指導ができる人材を探し、伝手を辿り県外にも枠を広げ適任者を探していた。最後の手段で件の友人教授がお願いされていたところに偶々私が行き合わせたというのが実情です。同年の3月に第1回目の加工技術指導講座を実施日程は3泊4日の行程であった。
参加学生は、純真無垢作業着を真っ黒に汚して一所懸命作品づくり、指導教諭は「生野さん、ここは最南端の工業高校であり具体的な情報が得られないまま、指導しているが、我々の指導方法で良いのか如何か?」「モデルがないまま、徒手空拳で指導しているが正直なところです」との相談を受け、私は「同じ高校生であり、工業高校教諭です、大きな差はありません、ただ一所懸命さの問題です」「学生の一所懸命さ、目が活きています このままの気持ちを持ち続ければ、結果は必ず出ます」と答え、再度の講座を6月と決め、概略日程を打ち合わせ第1回目講座は終了、6月の講座に来てびっくりです、沖縄本島から多数の工業高校教諭有志が参加、更に県の職員も同行しており「近いうちに沖縄本島でも開催したが、可能でしょうか?」のお誘い」 8月の夏休みに学生らは腕試しに国家試験へチャレンジ、見事沖縄県初の2級技能士誕生の快挙、1昨年はモノつくり九州大会で優勝し全国大会にコマを進め、沖縄でも加工技術の芽は芽吹いていますを 全国にアピール、近年では、愛知県等々の有名企業からスカウトに来るまでに成長の兆しを見せています。願わくは、基地に依存せず沖縄自立の地産地消化【学生を育成しその学生集団が沖縄で起業する】
2007年3月から2013年8月まで都合30数回、沖縄への加工技術啓蒙行脚、偶然の出会いから彼らの一生懸命さに触れ、私のライフワークになったようである。
器用不器用はほんの僅かの差でしかない
その差はけして 技巧の差ではない
その人の人柄からくる 無技巧の差である
本業が趣味にどう役に立ったか、こたえ??(しいて言えば、趣味が本業に役に立ったが正解かと思います)凧に興味を覚え、凧の製作はもちろん収集あるいは謂れ(図柄や骨組み)更には民俗学との関連等を好奇心の趣くまま、突き詰める調査研究の面白さを凧から学んだ。端的に申せば凧により『気づき』と『行動』が癖になることや面白さを学んだ。この気づきと行動が本業に転化され『現代の名工』や『黄綬褒章』の受賞につながったと思います。凧に感謝、そもそも、長女が折り紙や草花遊びの伝承遊びを次女に教えながら遊んでいるところに、たまたま『私が鶴の折り方教えて』と、あそびに加わったことが発端、そこで『伝承遊び』に気づき『気づきと行動』更には『出会いの妙』これを凧から学びました。概略記しましたように、凧から学んだことが本業に活かされたものと思います。
更には、精密版画も凧の仲間との年賀状がキッカケであり、自ら彫ってみようという『気づきと・行動』さらには『好奇心』から始まったものです。まとめますと、凧や精密版画から学んだことが本業に大いに役に立ったということになると思います。趣味から学んだこと‐2を記します。
凧の収集や製作さらに伝承等々調べる、端的に記せば、『幕妄想』です。なぜ凧なんか・・・・集めたり調べたりしとるん?と言われても気にしない、迷うこと無かれ、なぜ・なぜの好奇心と“本物に触れたい”の気持ちが芽生え、一所懸命あそぶことを学んだ。凧を揚げることから学んだこと、その凧に応じた風を待つこと、風を読むこと、風に応じた凧の調整を行うこと、風の層を読みながら揚げること、『目的の明確化・準備万端・調整・目的達成』
精密版画から学んだこと
『九仞の功を一箕に虧く』
この九仞の仞とは八尺(または七尺)のこと、九仞とはその九倍で、ひじょうな高さを形容していった言葉である。たとえば、山を築く場合に例をとると、せっせと九仞の高さまで山を築きながら、いま一簣(簣は土を運ぶ籠のこと)で完成というところまできてあとの一簣を怠れば、それは山を完成したことにならない、山はできないままに終わるのであって、それまでの山を築いてきた努力はなにもならなくなる。版画製作で最後に手元が狂って大事なところを削ってしまう
あるいは傷をつけてしまっては、何もならない、最後まで気を抜かずにやりぬくこと、『ゆっくり・じっくり・急ぐ』ことを学んだ
次世代への啓もう活動でも、最後まで気を抜くことなく、凡事徹底を究めていく。
東陶機器(株) 中央技術センター 生産技術センター 研究員
生野 保幸 氏
1950年生まれ 北九州市出身
1965年 東洋陶器(株)現 株)TOTO入社
小倉第1工場機械課工具係に配属、機械加工と出会う
1990年 研究業務に転籍、銅合金の鏡面切削加工を実現
以降
光通信事業のコスト改善や新素材の加工技術開発業務に携わる
この間、技術考案賞はじめ数度のTOTO社長賞受賞
2000年 福岡県優秀技能者表彰(福岡県版 『現代の名工』)
2001年 第1回 北九州マイスター認定表彰
2002年 福岡県優秀技能者県知事表彰
2003年 厚生労働省認定 平成15年度『現代の名工』受賞
2004年 文部科学大臣表彰
2005年 平成17年度 『黄綬褒章受章』
2006年 九州大学 工学府 後期博士課程 入学
2007年 沖縄県への加工技術啓蒙活動始まる(大きなお世話な小さな親切)
2010年3月 TOTO(株)定年退職
2010年4月 付加価値創生研究所 創設
2012年 九州大学 工学府 後期博士課程 課程博士期限 単位満了退学
2012年5月 北九州マイスター技能伝承倶楽部 設立 副会長兼事務局長
~ 現在に至る