地域社会教育賞 受賞
昭和52年正月早々、大学ラグビー部の大先輩である白木先輩より電話があり、大野城市で少年ラグビー部を始める人がいるので手伝ってほしいとの要請があり、4、5人のラグビー仲間を誘って指定のグラウンドに行きました。小学校3年生から5年生15人の子供たちが集まり早速練習が始まりました。何のことはない、手伝いではなく本柱で汗を流さねばならないと分かったのはその初日でした。
楕円球のボールをうしろにパスしながら前に走るラグビーの基本を教えるのに、相当の時間を費やしました。騙されて?始めたコーチでしたが、子供たちと接する度にいつの間にか子供たちに情が移り我々の指導にも熱が入ってきました。毎週日曜日、午前中の練習が終わると私の自宅で練習方法について激論を交わしました。お陰で私の家の冷蔵庫は月曜日になるといつも空っぽでした。
ラグビースピリットである「オールフォアワン・ワンフォアオール」「ノーサイド」「ゴー フォワード」「フォアザチーム」等を教えねばならない。という原点すら忘れ、ただひたすら勝利するための練習のみに全力を注ぎました。十周年を過ぎる頃やっと我々はラグビーを通して生き方を教えているのだと気づきました。今年で36年になりますが、今も子供たちと一緒に楕円球を追っています。そして尚、自分との戦いを繰り返しております。
この36年間、何度となく少年ラグビーをやめようと考えましたが子供たちが待っていると思う心が原動力になっておりました。さて創部時15人の子供で始めた部員は十周年を迎える頃には150名にのぼる数になりました。20年目には230名となりました。拡大の嬉しさと同時に苦しさもそれに比例して発生します。
最初の10年間は先方のご都合で使用するグラウンドを10回変わりました。1年に1回の割合です。そして最大の不幸がチームを襲いました。平成5年8月。練習中に小学4年生のH君が意識不明となり、その5時間後に死亡しました。全国の少年ラグビー界初めての不幸な出来事であり、私は会長を辞し協会にその立場を委ねました。この間の反省や挨拶回りでの屈辱は当然受けるものの針の筵にいるような毎日でした。協会の謹慎を解く辞令はその5年後のことです。さて部員が増えることに比例して、ボランティアだからこそのトラブルの発生です。コーチ同士、保護者同士、コーチと保護者等のトラブルの度に退部する者が続発します。保護者は勿論コーチも必要経費は自分たちの手出しでクラブの運営をしております。だからこそ、心が大部分を占めることになります。その心が行き違った時にトラブルが起きるのです。中々難しい問題です。
総じて述べるなら、ラグビーを通して人間として絶対に持たねばならない道徳心を養うことが、最大の目的であり、財産です。
ラグビーとは、「少年をいち早く大人にし、その大人にいつまでも少年の心を抱かせるもの」とフランスの選手の有名な言葉です。戦いに挑むものすごい緊張感で燃え上がるとき、その眼は子供の目ではなく、勝負を争うスポーツマンの目になっております。
一人ひとりの集中力・闘争心が試合で爆発するとき更に強化されたチームワークの決勝がそこに出来上がります。
県大会や九州大会では多数の優勝カップやトロフィー、賞状を頂いております。また県や九州選抜にも多くの部員が選ばれております。更に第一回の全国中学校大会では優勝の栄誉を勝ち取りました。また、卒業して高校に入ったOBの中には花園経験者も多数輩出しております。今やOBがグラウンドで子供たちをコーチしてくれるようになりました。「ラグビーをやって良かった」とも言ってくれます。形あるものはないけれど、36年間の心が充満しております。私事で恐縮ですが、グラウンドでは今、親子三代で走り回っております。
つくしヤングラガーズ 会長
池上 邦俊 氏
昭和19年8月7日生 福岡市博多区美野島
昭和39年3月 福岡県立福岡高等学校卒業
昭和43年3月 明治大学商学部商学科卒業
昭和43年 マックス(株)入社
昭和48年3月 (株)イケガミ設立 代表取締役就任
昭和52年3月 つくしヤングラガーズ創設